略縁起
国分寺は、聖武天皇の勅願によって、天平十三年(七四一)行基菩薩が開創し、七堂伽藍が整備されて、他の国分寺にくらべ豪壮なかまえでありました。第三世住職智法大師の時、弘法大師が杖を留めて滞在、五大尊の絵像を残され、大師の弟子真如も二年間滞留、法華一部を染筆しました。
それから後は、受難の歴史で、天慶二年(九三九)藤原純友の乱、さらに治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵で、河野道信は、元暦元年(一一八四)平氏と戦火を交え、さらに南北朝時代貞治三年(一三六三)細川頼之の兵火に焼かれること三度、そのつど国司の力によって再建されましたが、天正十二年(一五八四)年長曾我部元親と伊予の国主河野通直の戦いで、四たび堂塔を焼失してからは、四十三世恵光上人が寛政元年(一七八九)金堂を再建されたのが、現在の本堂であります。
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