略縁起
光仁天皇宝亀5年、和気道善長者の開基で、智証大師(弘法大師の甥)誕生の地であります。
訶利帝母が日本で最初に出現せられたところで、本尊薬師如来は、大師の作であります。
はじめは寺号を道善寺と号したが、文徳天皇の御宇。仁寿元年初めて勅願寺になり、醍醐天皇の延長6年、金倉の郷の名をとり、金倉寺と改め、山号は鶏足山と号しました。全盛時代には、境内南北二里東西一里に及び、神祠仏閣数十宇、僧坊百三十二院を数え、勤務の大衆千余人に及んだが、建武の争乱のため掠奪され永正、天文以来四国の争乱に、伽藍悉く焼亡し重宝等も或は焼亡、或は散逸しましたが、幸に兵火をのがれた本尊、重宝を境内の一隅に安置し尊崇礼拝しておりましたが、百余年を経て、寛永の末期、松平頼重公が当国の太守に任ぜられると、此の霊蹟の廃絶するを嘆かれ、大檀主となり伽藍を再建寺領を寄進、一郡一ヶ寺の祈祷所となさいました。
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