当山は淳和天皇の天長6年(西紀827)の創建で弘法大師開基といわれ、寺伝によれば、大師がこの山に登って虚空蔵求聞持法を御修行のみぎり結願に至って五柄の利剣が虚空より降り金剛蔵王示現しこの山の鎮護を告げられました。大師はこの五剣を厳軸に埋めて山の鎮護としたので五剣山と名づけ、又大師の入唐前に再びこの峰に登られ入唐求法の前効を試みるために植え置かれた焼栗八枚帰朝後に悉く生長繁茂したという因縁で八栗寺とよばれるようになったのだということです。
天正年間長曽我部元親の兵火に焼失したが、文禄年中無辺上人が、復興を企て、寛永19年に藩主松平頼重侯が現在の本堂を再建、延宝5年には木食以空上人が東福門院御下賜の歓喜天を当山に勧請、霊験あらたかにて四季を通じて参詣者が絶えません。
当山鐘楼には昭和30年鋳造、日本有数の歌人で能書家として有名な故会津八一博士(秋草道人)作歌・揮毫の歌銘「わたつみのそこゆくうをのひれにさへひひけこのかねのりのみために」の梵鐘がある。
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